信州伊那の井月(せいげつ)

蕗の薹

春が来たかと思えば,このところ急に冬に逆戻りのような寒さです。

そんな中,スーパーの野菜売り場に懐かしい蕗の薹がありました。21220 そういえば,子供の頃,信州での春先,残雪の中に蕗の薹が顔を出すと一気に春がやってきた感じがしたものでした。

購入してみると,優しい色合いと比較的小さな蕗の薹で18個ありました。母の味が出せるかなー。色々と教えてもらえばよかったのにと思いながら,まずは天ぷらにしてみました。

残りは蕗味噌にあつらえてみました。ほろ苦く,お酒のつまみにはもってこいかもしれません。Dsc04089 数少ない天ぷらもひとつ試食すると,ほっ!いい感じ。苦みが消えてなかなかの蕗の薹。

伊那を漂泊したかの井月(せいげつ)にも「今夜は,1盃飲んで行きんさい」と声をかけてやりたいくらいな寒い春の夜です。

羽二重のたもと土産や蕗の薹  井月

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漂泊の俳人井上井月展(かんてんぱぱショップぱてぃお大門店)鑑賞

幕末から明治にかけて約30年間,信州伊那地方を漂泊した俳人「井上井月(せいげつ)展」が,初めて長野市で開催中(11月28日まで)。そこで,上野から長野新幹線「あさま」に乗って,行ってきました。 

長野市は,流石,新幹線の終着駅だけあって,街が大きく,門前街としての風情が,木葉の舞う季節に,より美しさを増していました。Dsc01660_2

まずは,展覧会場の「かんてんぱぱショッブぱてぃお」 を横目に,まっすぐ善光寺さんへ。仁王門をくぐり,仲見世を通り,三門から善光寺本堂へ。Dsc01686_2

お参りした後,本堂内の「お戒壇めぐり」に挑戦しました。挑戦というのは,真っ暗闇の通路を歩き,『極楽の錠前』を手さぐりで当てるという,善光寺ならではの体験ができるのです。本当に真っ暗闇の地下の廊下です。入る前に係の方に「右手で腰の辺りの壁を伝って下さい」と言われ,壁を腰の辺りを中心に上から下まで手さぐりしながら前の人に付いて行きました。確か昔,穴の中に手を入れると鈴がある・・」などと聞いた覚えがあるのですが・・・果たして如何に・・・。ぐるりと進むと,ふと,手に大きめのドアノブのような物に触れたので,それを左右に振ってみると,ゴトゴトと音がしました。前の方々のときはそんな音は聞こえず,次の人から,触り始めたらしく,音がしました。子供の頃に戻ったような嬉しい体験でした。

さて,「井上井月展」は大盛会で,大勢の方々が見えていました。Dsc01706

掛け軸や屏風,短冊など約40点が並び,中でも注目は,最近長野市の中条村から発見された俳諧1枚摺で,井月像も描かれています。中に,

数の子や土器(かわらけ)したむ山折敷(やまおしき) 井月Dsc01704

があります。

来年1月11日12日に開催される第9回『街の小さな展覧会・さすらいの俳人井上井月展』(葛飾区青戸『ギャラリーVIZAN』)は,県外初の展覧会です。どうぞご期待ください。

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解説書『井月新句略解』のご紹介

腰かけて夢みて春の旅路かな  井月

信州には北に小林一茶,南に井上井月(せいげつという二大俳人がおりました。井月は元武士でしたが,幕末の動乱期から明治20年にかけての約30年間を伊那地方に漂泊しながら人々の恩恵にすがりつつ,俳句を詠み散らしました。

大正10年芥川龍之介の主治医でもあった伊那出身の下島勲『井月の句集』(跋文を芥川龍之介が書いています)を,昭和5年,伊那高女(現伊那弥生ケ丘高校)の先生だった高津才次郎が,なお井月の俳句を蒐集し,下島勲と共に『井月全集』を発行しました。その後,井月が立ち寄った家々の襖や蔵の中から井月の句が発見され続け,井月没後約120年経ちますが,いまだに新俳句が発見されるという他の俳人には類を見ないような現象が続いています。

これまでに井月研究の第一人者矢島井聲(せいせい)先生によって蒐集された井月の新しい俳句は,190句を越えました。そこでこの度,140句を矢島井聲先生が,50句を井魚(せいぎょ)担当し『井月新句略解』(頁数146)として発行しました。2008727

かの種田山頭火も,伊那の井月を敬服して,はるばる山口県から井月墓参(昭和14年)にやってきたほどです。どうぞ,みなさま,幕末明治に生きた漂泊者井月の新しい俳句をご覧下さい。

『井月新句略解』 1冊1890円(税込)

お求めは,伊那市通り町  小林書店 電話0265-72-2685

または,E-mail:piabook@post.nifty.jp  井月係まで。

限定400部です。お早めにどうぞ。(送料別途)

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高遠散策 (3)

Dsc01002 高遠城址公園と名付けられたのは,昭和51年(1976)のこと,それまでは,高遠公園と言われていました。その公園の中は,新緑の中,咲き始めたツツジが鮮やかです。

高遠(たかとお)は,「こうえん」とも読みます。ちなみに国語辞典には,「けだかく,立派なこと」とか「考えていることがすぐれて高くぬきんでており,教養の低い人にはたやすく計り知れないこと」とあり Photo_2ます。文献から推測すると,はるか昔,京都の公卿(朝廷に仕えていた)だった一族の高遠氏が流れ着き,そこで高遠と地名が付いたと思われます。ちょっと納得できました。

公園の中に見えてきたのが,井月俳句大会を開催している「高遠閣」です。昭和11年有志によって建てられた会館で,有形文化財になっています。

511 第17回井月俳句大会は,この高遠城址公園での開催は2度目のこと。俳句の応募は,一般から1553句,小中学生から,何と9853句もあったそうです。次世代の若者たちの応募が多く,その感性に驚きました。

午前中は入賞者の方々の表彰式があったようです。午後の会場は100人近い方々が集まっていました。気温が低いので後ろの方にストーブが・・。(5月11日は関東甲信越は思いの外寒かったのでした)Photo_6

特選の作品の中から小学1年生の句。

ふゆだから ほしてるふくが あったかそう  やまざき ゆうや

1ねんせいに にゅうがくしき はるのいろ   小林 あずさ

もちやけた ぷくっとでたよ おつきさま   みやざわ ゆうき

ろてんぶろ 月がフワフワうかんでる   久保田 栞莉

はるのうみ いっぴきのとりが ないている  はしずめ のの

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高遠散策 (2)

Dsc00971 高遠城址公園へ登っていく道中の桜の木々は,苔むして貫祿があります。これらは明治8年頃から,旧藩士たちによって植えたタカトオコヒガンザクラ。俳人井月は,まだこの頃は健在で,故郷の長岡へ帰ろうか,いや帰れないといった心境のまま漂泊を続けていました。長岡も戊辰戦争で,お城や城下町が焼けてしまっていました。現在の上越新幹線長岡駅は,その長岡城本丸があった場所だそうです。

Dsc00974 ようやく自分坂を登り詰め,大手門と表示した碑を左手に登っていくと,瓦屋根の「大手門」が待っていました。この門は,1984年(昭和59年)まで,高遠高校が,正門として使用していたとのこと。かつて大手門の他に,二の丸,本丸,からめ手の櫓門があり,競売されて,民家や寺院の門になったそうです。それにしても,大手門をくぐっての通学とは,歴史ある高遠ならではの風流さ。重みのある時代があったことでした。

Dsc01003ほどなく,かつての高遠藩の藩校「進徳館」の門が,石段を手前に見えてきました。この門の奥に進徳館が現在もあり,創設は1860年(万延元年)のこと,江戸の昌平坂学問所に倣っているそうです。時の儒学者として有名だった昌平坂学問所の大学頭佐藤一斎は,高遠と縁が深く,高遠藩儒中根東平の娘庸と結婚しています。井月は,「これでも一斎の門人じゃからな」と言ったそうです(井月全集)。

ものはみなあとの噂や虎が雨 井月

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高遠散策 (1)

東京は新宿から,南アルプス号(京王バス)に乗車し,一路信州は高遠へ高遠へ。約3時間45分で,JRバス高遠駅に到着。昼の12時過ぎでした。高遠は城下町。それも平らな松本や盆地の諏訪とは違って,山間にあり,お城(今は城址)も山肌にあります。

Dsc00961 街道には,城下町の面影が残っていて風情があります。ふと燕 の声が・・・。見ると,家々の軒下には燕の巣があり,盛んに親燕 が行き来しています。

そんな街道を下り加減に歩いていくと,藤沢川に架かっている高砂橋を渡り,車道から外れて高遠城址公園への登り道を探しました。そこに何と,「自分坂」という急な階段がありました。今ではコPhoto ンクリートの階段ですが,昔は石段か,それとも藪の坂だったのか,自分で分け入っていかなければならないような険しい坂道だったのかもしれません。

そこをやっとこ登っていくと,俄かに目の前が開け,眼下に素敵な高遠町の風景が広がりました。これこそ,自分の足で坂を登ってきたご褒美です。それにしても「自分坂」なんて誰が名付けたのでDsc00972 しょうか。幕末,漂泊の井月(せいげつ)さんは,この高遠にやってきましたが,どのようにして高遠城へ上がったのでしょう。そんな思いがふとよぎりました。

涼しさや雲の間から見せる影 井月

信濃路や松魚はみねど時鳥 井月

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「第17回信州伊那井月俳句大会」のお知らせ

2008年5月11日(日)am10:00~pm3:00

会場 長野県伊那市高遠城址公園内 高遠閣

主催 信州伊那井月俳句大会実行委員会

共催 伊那市・伊那市教育委員会

[入場無料・どなたでも入場できます]

信州伊那 (伊那市 http://www.inacity.jp/ )では,毎年俳人の井月(せいげつ)を顕彰するために,俳句大会や講演会が開催されています。例年は,井月忌である3月10日前後の日曜日に伊那市内の会場(いなっせ)などで開催されていましたが,高遠町・長谷村が伊那市に合併したこともあり,昨年から高遠城址公園内で,しかも5月の爽やかな季節の開催になったようです。

Photo 左は,高遠城址公園の近くにある昔の藩校「進徳館」です。1860年の創設で,江戸の昌平坂学問所に習い,朱子学を中心とした教育がなされました。井月は,1822年越後長岡に生まれた武士出身といわれ,昌平坂学問所の儒学者佐藤一斎に学んだともいわれています。その井月が,なぜか武士の身を捨てて,俳句の道に・・・。1858年伊那地方にやってきて,俳句を詠み,高遠藩と関わっています。1887年までの約30年間を伊那地方に漂泊し,優れた俳句を詠みました。そんな井月を慕っての俳句大会です。

高遠城は今はありませんが,1547年武田信玄が,山本勘助などに命じて築いた城でした。明治になってから藩士たちが植えた桜の木は,毎年4月中旬に見頃になります。

東京は湯島にある湯島聖堂に行くと,「昌平坂学問所跡」などの旗が翻っていますし,「昌平坂」もあります。

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井月の秋

あんなに鳴いていた蝉の声もすっかり聞こえなくなり,いつのまにか虫の音の高鳴る秋になりました。公園や時には,街路樹から虫の音が降ってくるときもあり,東京は,虫のいる場所が限られているからだろうかと,可笑しいような哀しいような気分です。

幕末から明治20年にかけて,信州は伊那地方を30年も漂泊した俳人井月(せいげつ)さんが詠んだ秋の俳句(虫の音)を調べてみました。

  虫の音も稀に聞(きこ)へて草の秋  井月

  明けかかる夜の手間取るや虫の声  井月

  打返す枕に虫の遠音かな  井月

井月さんは,長岡出身の武士と推測されていますが,自分の素性を語らなかったといわれています。当時伊那地方では,俳句を詠み,連句をする人が多かったようです。井月さんは,そんな家々を巡っては,食事やお酒を恵んでもらい,寒い夜は納屋などに寝かさせてもらったようです。そんな井月さんですが,俳句も字も大変よくできたらしく,「井月先生」と呼ばれ,尊敬する人もいました。年月と共に,次第に着ているものもポロポロになり,いつしか「乞食井月」と呼んで嫌う人もいたようです。926_2

しかし,井月さんは,生涯,人間としてのプライドを失わなかったようです。それは,武士としての魂を持ち続けたからでしょう。伊那を離れず,伊那に人生の大半を漂泊した井月さんが,今,文学的にも,その生き方にも注目されています。

写真は,ムラサキシキブの実(撮影場所 青戸)

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井上井月(せいげつ)真筆集

昨日は,巨大なダリア「皇帝ダリア」に びっくりしましたが,数日前,巨大な書籍が届きました。大きさは,縦約39.5㎝ 横約26.5㎝ 厚さ約3.5㎝ 重さは,何とカバーを外した本体が,2.9㎏もあるのです。滅多に見られない巨大な本のタイトルは,「井上井月真筆集」新葉社 E-mail info@shinyosha.com ) 井月(せいげつ)さんは,今では知る人ぞ知る俳人ですが,まだ知名度は少ないかもしれません。Photo

簡単に紹介すると,江戸末期から明治20年にかけて66年間を生きた男性です。およそ越後は長岡出身の武士で,いつの頃からか武士の身を捨てて,諸国を行脚し,やがて信州は伊那に漂泊すること約30年。明治20年に伊那で没しました。

井月さんは,家を持たず,伊那のあちこちの家々の心尽くしに出逢いながら俳句を詠み,素晴らしい遺墨を残しました。没後約120年を経ての記念すべき真筆集は,腕にずっしりと重く,一人の俳人の生きた証を感じます。Photo_3

左の遺墨は,「羽二重の袂みやげや蕗の薹 井月」

また,近刊2007・7・15 彩流社http://www.sairyusha.comより,中島三好著「漂泊の俳人井上井月記」も好評です。

「井月」の名について,想像してみると,「井」は,井戸のことをいいますから,「井戸に映る月」というイメージが沸いてきます。

そういえば,今夜は中秋の名月です。青戸の月を写してみました。晴れた夜空に,かなりはっきりと光っていますが,満月ではないそうです。 925_4

時を超えて,同じ月を見ていた井月の句。

月ささぬ家とてはなき今宵かな  井月

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